それから、虚しさを押し殺す日々がはじまった。高尚ぶった絵画や耽美趣味の少女たちに好まれそうなイラストレーションをただ、たんたんと適当に仕上げていく。

 綺麗な絵だの美しい絵だのと評されるたび、内心で(節穴が)と毒を吐く。

 なにをやっても解消されない空虚感に苛々した。そして、わたしは募る苛々を妻にぶつけはじめた。

 最低だ。わかっている。しかし、わたしは子供じみた癇癪を抑えられなかった。童顔の明日香と老け顔のわたし。精神は逆だったらしい。

 あいつの一挙一動になぜか腹が立つ。物音を立てただけで、怒鳴りたくなる。殴りたくなる。……なんなんだお前は。絵を描くこともせず、なぜにこんなだめなわたしに尽くす!?

 目元に痣を作り、泣いていた。あいつは長いこと耐えていた。……が、ついにあいつから離婚届を用意した。それを見て、わたしが覚えたのは安心感。もう、いい。甘え過ぎていた。自由に生きてくれ。

 それで、受理されたのが昨日。……アイスクリームの溶けたメロンソーダをストローで下品な音を立てて飲み切る。氷がカラン、と言った。


 サラリーマン、というのはどういうものか。よくわからないが、恐らくわたしとそんなに変わらないのだろう。と、個展にて窮屈なスーツに身を包み、内心の無気力さを表に出さないよう気をつけながら、社交辞令を述べる客人たちに事務的な対応をしつつ思う。客人の贈る花で飾られた空間には(花は正直、迷惑だ。あとで片づけるのが面倒)、同じような、つまらない絵ばかりが並んでいる(わたしが描いたわけだが)。絵の何枚かは、売約済みを意味する赤いシールが貼られていた。成金共による、虚栄の証しだ。

 客人の一人(けばけばしく、肥えていて、言動がいかにもキッチュな中年の婦人)に適当に絵の説明をして、そこから発展した長話に付き合い、ようやく去ってくれてから一息吐いた。そっと自分の肩を揉む。思いっきり伸びもしたい気分だ。……しかし、一息は本当に一息でおわってしまった。

 客人がこちらへ明らかに近寄ってくる。姿が近くなってくると誰かはっきりとわかった。見覚えのある、格好のいい老紳士。しかし連れている、和装の背の高い少女に見覚えはない。

「こんにちは、宮沢さん」
「……こんにちは、三屋さん。ご来訪、ありがとうございます」
「初めまして」

 昔は大層美男だったであろうことがわかる顔に上品な笑みを浮かべるこの老紳士(いや、端から見たらわたしのほうが年寄りに見えるかも知れない)は、度々わたしの個展に来ていた。絵を購入していったこともある。

 そして、少年のような声色に内心少し驚いたが、隣の礼儀正しく挨拶してくれた少女は孫娘だろうか? 声だけではなく、よく見ると骨格や容貌など所々に中性的な印象はあるが、美少女だ。前髪を斜めに流した、つやのある黒髪のショートカット。年の頃は十代後半といったところだろうか。いや、一風変わった、妖艶な化粧のせいで大人っぽく見えているだけかも知れない。切れ長の目尻に細長く伸びているのは、睫毛ではなく黒い羽根だと気づいた。

 すんなりとした細長い体に纏っている、黒地の着物に描かれた花鳥風月の文様の色彩はあでやかで、本物の友禅染(ゆうぜんぞめ)だとわかる。袖から覗く少々無骨な手は顔と同じく白皙(はくせき)としていて、その白さを守るためであろう日傘を携えていた。……つい、少女のなんとも言えない、周囲から浮いた独特の美貌と雰囲気に惹かれてかまじまじと観察してしまった。

「初めまして。……お孫さんですか?」
「いえ、私の息子です。影次と言います」

 呆気に取られ、疑問を口にする前に、老紳士はわたしたちの前にあった絵のほうを向いた。十字架を背負った、修道女の絵である。『聖女』という題名だった。

「いやあ、相変わらず繊細なタッチで美しい! ……しかし、なにかに抑圧されているようですね」
「あ、あの……」
「そうそう、こちらつまらないものですが」

 戸惑っているわたしに構わず、老紳士はスラックスのポケットから黒い紙と真紅のリボンでラッピングされた小箱を取り出し、わたしに差し出す。一拍置いてから、得体のわからないその小さなプレゼントを受け取った。

「菓子折りは腐るほどいただいているでしょうし、花は邪魔になると思いましてね。実は私、娼館を営んでおりまして……コレは会員証です」

 わたしは、あ、とか、え、とかしか発せなかった。

「本当は色々と手続きがいるんですがね、特別です。こいつも買えますよ」

 老紳士が少女だか少年だかわからない生き物の腰を抱き寄せる。その面妖な生き物は、わたしに媚を含んだ――ように見えた、だけかも知れないが――流し目を送ってきた。腰を抱かれながら、堕天使を思わせる、黒い羽根の生えた目で。

「ご連絡くだされば、ご案内いたします。よろしければ遊びにいらしてください。……では、接客でお疲れのようですし、これで」

 老紳士は息子の腰に手を添えたまま、踵を返した。異様に密着している後ろ姿は、親子関係というより愛人同士に見える。

 退廃だ。倒錯だ。おぞましい。

 だが、不思議と惹かれる。どうやら、わたしはよほど渇いていたらしい。

 あの個展の日から、おぞましいと感じつつも、ずっと脳裏に焼きついて離れないのだ。影次という名のアンドロギュノスが。あの少年は夢魔なのか? わたしは取り憑かれてしまったのか?

 名刺の束を漁り、見つけた目当ての名刺に印刷されていた番号を携帯電話で打つ。

『はい、私の息子をご指名ですね。はい……では、スケジュールを確認し次第、使用人の者がご連絡いたします』

 わたしに変態趣味はない。それ以前に、わたしは性欲が常人より薄いほうだと思う。そういえば、あいつを抱くことも少なかった。

 ただ、あのアンドロギュノスと、娼館という現代では聞かぬ響きが、この空虚を少しでも埋めてくれるかも知れないと期待した。わたしは、やはり生きたいのだろう。

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