[ある画家、あるいは精神の渇き]

 わたしは生きながら、死んでしまった。

 久しぶりに激情に任せて絵を描いた。久しぶりの心地好い疲労感。しかしそのあと襲ってくるのはいつも通りの虚しさ。絵の具のにおいに満ちたアトリエで、極彩色に塗れながら床に転がること数時間(恐らく、それくらいは経っている。そろそろ空腹感に耐えられない。生きた肉体の面倒臭さ)、頭の中で延々とぐるぐると巡る『わたしは死んだ』という絶望。

 重い体をなんとか起こすと、目に入るわたしの遺作。美しい女が微笑んでいる。いや、泣いているようにも見える。その微妙な表情に加えて、ぼやけた輪郭と色使いがなんだか不気味に映るかも知れない。世界一怖い絵などと主にネットで噂されている女の肖像画と、若干似てしまったような気がする。

 わたしは妻を正直に描いたから、美貌はその肖像画には劣るが、不気味さでは優っているだろう。と、創作熱の冷めた頭で絵を自己評価してみる。もしかしたら、ネットで広まるほどの衝撃がこの絵にあるかも知れない。猟奇的な噂を添えられたり、妻と別れた理由を捏造されたりで。……しかし、わたしはこの妻の肖像画を世に出し、金にする気はさらさらない。

 そして、今後妻をモチーフにする気もない。滅入る、というのもあるが、この絵は爆発のようなものだ。あとにはなにも残らない。そう、わたしはこの爆発を最後に、死んだのだ。

 立ちあがり、アトリエを出る。少し進み、電気を点ける。暗い廊下が照らされると、暗いリビングが奥のほうに見えた。そう、当然の如く暗い。これから食事はどうしようか。わたしにまともなものが作れるだろうか。

 洗面所へ向かい、エプロンもせずに描いていたからひどい有様になっているシャツを脱ぎ、洗面器にかける。あいつは、絵の具のこびりつくシャツをどうやってあんなに綺麗に洗いあげていたんだろう? 二階の寝室に向かう。あいつを一人で寝かせてしまうことの多かった、ダブルベッド……。

 クローゼットを開けて、よれよれのシャツを着る。穿いていたジーンズも汚れていたが、これはまあいい。財布をポケットに捩じ込み、一階におりて、踵を潰したスニーカーを突っかけ外へ出る。

 夜闇(やあん)に光るのは、すぐ近所にあるファミリーレストランの看板。自動ドアを通り抜けると、客からちらちらと向けられる視線を感じる。洗面所の鏡で確認はしていたが、やはり落とす努力はしてみるべきだったか。口元を覆うほど伸びたひげに付着している絵の具。そのまま、店員に案内された席につく。

「ナポリタンと、食後にクリームソーダ」

 メニューを見ず、すでに脳内で決めていた注文を告げる。空腹は癒したいし、好物も頼みたい。そう、その程度の絶望なのだ。肉体まで死なせる気はないし、ちゃんと欲もある。

 ただ、たんたんと機械的に、周りから喜ばれるような表層的な絵を描いて生きていけばいいだけだ。

 ……ああ、後ろの席でサラリーマン共が仕事についてなにか大声で言い合っている。うるさい!


 わたしと明日香は同じ美大に通っていた。自然と仲良くなった。恋人同士になった。大学を出て、夢を追うわたしに明日香はついてきた。

 パーマネントで波打った髪。まるい輪郭の顔。どんぐり眼(まなこ)。やや幼く、明るい雰囲気の容貌。こんな不細工で、人より老けたわたしにはもったいない女だったのだ。地道に画廊に売り込み、様々な副業(本業? 画家だ)で稼いだ金で個展を開いた。明日香はそんなわたしに尽くし、身の廻りの世話だけではなく、金銭面を助けてくれることもあった。

 そのうち、わたしの絵を買う客が出てきた。描いた天使が賞を獲った。副業をすることがなくなった。大きな家を建てた。……明日香にこれからお返しをしていかなければと思ったが、彼女はなにも求めず、ただ家事だけをしていた。ふと、明日香も空き時間には絵を描いていたはずだったが、長い間そんな姿を見ていないことに気づく。

 そのまま、わたしたちは結婚した。順風満帆。なにもかもうまくいっていた。

 なのに、ふと重要な、しかし気づかなかったほうが幸せだったことに気づいてしまった。ルーチンワークと化しつつあった絵を描くという作業に、漠然とした嫌気を覚えてきた頃だ。スランプだろうか。嫌気の正体を探らなければと、描いた絵の前で思案する。

 そして、気づく。今までわたしは絵を描いているようで、ちっとも描いていなかったのだということに。前に居る裸婦の聖女のような微笑が、癪に障る。

 若い頃はただ成功したかったから、努力してきた。一生懸命頑張ってきた。好かれる、売れる絵を描こうと。……そのために、持っていたはずの様々な感性を捨ててきた。そう、成功したかったから。仕方のないことだ。

 それで、成功したわけだが今のわたしはどうだ? 空洞だ。

 瞬間、周りが色彩を失ったように見えた。漠然とした嫌気がはっきりしてくる。

 わたしは、なにが描きたかったのだっけ? まるで思い出せない。……ふと、褒めそやす連中ばかりのなか、一人『ハリボテのような絵だ』と評した批評家がいたことは思い出した。

 この清らかな聖女を、今まで描いてきた天使を、美少女を美少年をすべて破り捨てて抹殺したくなる衝動に駆られる。しかし、中途半端に強い理性がそこまでさせてくれないから、パレットナイフで手の甲を傷つけるにとどめた。

 なにか、新しいモチーフを探さなければ。ネットをしたり本を読み漁ったりしてみるが、見つからない。用事がなければ基本外に出ないわたしが外出してみた。見つからない。……美術館に行ってきた帰り、住宅街の道路にチョークでラクガキしている女児を見かける。自由過ぎる線と、理性などないから描けるのであろう不可解な図。

(わたしより、君のほうが芸術家だ)

 子供は快楽主義だ。

←前次→

[一覧に戻る]

- XRIA -